いましはたれぞ

仮初の電脳空間で敢えて統合を分解してみた軌跡

 ことばとあそぼ! 「おしえる」と「みちびく」

 ほとんどの大人たちはぼくに答えを出すよう急かしてきた。

 今よりもこどもだったぼくは彼らがぼくに何をしようとしているのか理解できずグズグズしていた。

 最近になってやっとぼく自身で答えを出せたので、彼らはもういないけど、きっと彼らが望んだ答えじゃないだろうけど、ぼくだけが一人占めしててももったいないから記事にしてさらす。

  大人たちはぼくらが望む望まないに関わらず――ぼくらが望むことはほぼないけど――ぼくらに何かを「おしえよう」としてきた。

 今にして思えば、大人たちがぼくらに何かを「おしえる/教える」といった時、それは同時に「おしいる/押し入る」や「おしこむ/押し込む」なのだったんだろう。

 「教える≒押し入る、押し込む」ならば、ぼくらが大人たちに「おそわる/教わる」時、それは同時に「おそわれる/襲われる」ことだ、と伝えてやったら彼らはきっと金切声でわめき出すんだろうな。ホント恩着せがましいったらありゃしない。そんなんだからぼくは決して彼らにシビれないし、あこがれもしない。

 押し入られ押し込まれ襲われて、襲われ押し入られ押し込まれたら、ぼくらはどうなってしまう? あまりの気持ち悪さにぼくらは「ハき出して」しまうだろう。受け入れたくないものは一刻も早く「カき出して」しまわなきゃならない。そんな屈辱にきっと「ナき出して」しまうことだろう。

 

 今だから書けるけど、ぼくはこれまで何度も現実に押し入られすぎて人生をあきらめてしまうことがあった。不幸にも周りにはぼくに「やり直したい」と思わせてくれるだけの魅力を持った人はいなかった。けど幸いにもぼくは本やテレビといった架空の中に彼らを見つけることができた。

 ぼくがその時その時のどん底からはい上がる時、自分にそれだけの力があったと思い出させてくれるのはいつも、魅力的な彼らが言葉に出さなくとも「みちびいて」くれたからだ。

 ぼくの強引な解釈では、そんな気さらさらないんだろうけど、彼らがぼくを「みちびく/導く」時、それは同時に「みちひく/道牽く」ことなんだと思う。わかりやすく言いかえると、彼らはその魅力によって彼らの人生にぼくを引き込んでくれたのだ。

 逆に言うとぼくは彼らに「みちびかれた/導かれた」と言うより彼らの魅力という「みちにひかれた/未知に惹かれた」とでも言えばいいのだろうか。

 未知に惹かれて魅了されたぼくがとった行動は単純だった。

 ぼくは彼らの言動を「まねる/真似る」

 ぼくは彼らの行動に「ならう/倣う・慣らう」

 ぼくらの先祖は「真似」を「まねぶ」と活用し「学ぶ」と書いたそうだ。それは「まなぶ/学ぶ」に転じ今でもぼくらの人生の中に息づいている。もちろん「ならう」は「習う」に通じる。

 

 こうして書いてみると昨今の教導は「教」に偏っている気がしてならない。「教える」は「導く」ための方便の一つに過ぎないのに家庭や校舎を我が物顔で歩き回っている。

 でもそれはある意味仕方のないことだと思うんだ。先生にしろ親にしろ大人たちには時間がない、ないと思い込んでいる。だれもが他人と一生付き合うことはできない、一生付き合えるのは自分自身だけだ。だから他人と関係があるうちに教えようと押し込もうとするんだ、育てるために備えるために。短期的に見ればそれが一番効率的だから。

 長い目で見ればぼくらは一人一人形は違っても夢や理想を追うべきなんだ。けどぼくが見てきた大人たちはみんな現実に追われてきりきり舞いだった。ひょっとしたらぼくがよく見てなかっただけで、彼らは自分の夢や理想を追っているつもりだったのかもしれなかった。しかし少なくとも彼らには夢や理想が現実になった時に受け取れるだけの余裕があったようには感じられなかった。余裕を感じさせない大人にぼくがあこがれるはずがなかった。

 ぼくはこのブログを書くことでキミに何かを「教えよう」とするかもしれないし、「導きたい」と思うかもしれない。けどそれはとってもちっぽけなことなんだ。ぼくが世界中のだれよりもきっとぼく自身でぼく自身を「道牽きたい」と強く望む気持ちに比べれば。